16.2月更新
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この言葉のまえに、善・不善を識別するのはあくまでも自分の主観であり、完璧に善を善として、不善を不善として識別できるかどうかはわからない。 そこで主題の言葉が述べられるのである。 自分としてはよく注意していても、不善のことを善としてうけいれているかもしれない。この場合、往々にして自分の好ましい都合に恣意的に合わせているものだ。 この間違いをずばり指摘し、叱ってでも正してくれるひとがいないと、ますます悪い方向に自分を導き、ついに矯正されないままに打ち捨てられてしまうかもしれない。ここに、こころの師の必要が説かれ、この師をこころから受け入れる心構えの大切さを教えてくれる。 時には友が師になることもあるだろう。このとき、友といえども師への礼をこころのうちで持たねばならないことを暗に説いている。これが俗にいう「けじめ」であり、けじめをしっかりつけないでルーズにまかせておくと、やがて友から離反されることになる。 |
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