H17.6月更新 所長の部屋 

みなさんお元気でしょうか。今年はなんと災害・事故等が多いことでしょう。4月末、JR西日本は大変ひどい事故を起こしました。不慮の事故にみまわれ亡くなられた107名の方々に心からお悔やみを申し上げます。事故後の報道では、運転ミスをした運転士に日勤教育という名の懲罰的な研修を、JR西日本が課しておりました。国鉄時代の「いじめ体質」が組織に残っていたのかと暗澹といたしました。事故を知りつつ宴会を開いた社員の責任感・意識のありようなど国鉄時代の「親方日の丸」から変わっていないように思われます。

 現在、事故原因の究明に躍起となっておりますが「安全より利益追求を優先するようになった。事故の遠因は民営化にある」と論じる方がおります。見当違いも甚だしい。競業する阪急や阪神等私鉄が同じように利益のために安全を犠牲にしているでしょうか。JR西日本の問題点は職場に一体感がない国鉄末期の弊が消えぬ企業風土にあるのです。

もう一方、マスコミの方に目を向けますと余りにも無神経な横暴な報道に怒りを禁じ得ません。ご遺体確認を済ませたご遺族の方に「JRの対応は如何でしたか?」なんて、平気でインタビューする厚顔無恥の記者、記者会見場での読売新聞社の記者の横柄・暴言の数々、それを止めようとしないNHKをはじめメディアや他の新聞記者たち、正に一蓮托生、彼らはやくざ以下のレベルまで成り下がっているのです。「私は被害者の方々の味方です、代弁者です。」とでも言いたげな・・・。弱いものいじめは報道から・・・を肝に銘じておきましょう。一体、日本という国はどうしたというのでしょう???勉強熱心な日本人はどうしたというのでしょう???

ここで田原聡一と石原慎太郎の対話集「日本の力」からについての意見をご紹介しましょう。

・・・・2005年は、戦後60年にあたります。つまり、戦後民主主義が還暦を迎えることになるのです。最近「閉塞感」「閉塞状況」という言葉が時代のキーワードのようになっていますが、これは戦後民主主義の還暦と深い関係にあると、私は捉えています。

 戦後民主主義のキーワードは「解放」でした。解放が善で、逆は悪でした。戦争と戦死からの解放、国民を締めて受ける国家からの解放、言論、表現、思想、宗教などへの弾圧からの解放、農地解放、女性解放、隣組的な地域からの解放・・・と、いくらでも挙げられます。三世代家族からの解放で、核家族が理想の形であるかのように賛美された時代さえありました。「解放」が国民の夢であり、大きな目標でした。

 しかし、「解放」のはてには、家庭崩壊、地域崩壊、学校崩壊など次々にやってきて、今やそれが危機として叫ばれています。「解放」の結果、国民がそれぞれバラけた個人になってしまい、夢も希望もなくなってしまったのです。

 解放の潮流の中でタブー視され、悪とほとんど同義語のように使われたのが
『公』
です。私はいま、『公』を見直すべきだと主張しているのです。

 現在の教育基本法では個人の尊厳ということが強調されていますが、その個人が他者とかかわるとき、他者にも個人の尊厳があるわけで、その間にできるのが『公』です。そして個人は『公』に対する義務と責任がある。教室も駅も、もちろん地域や職場も『公』です。

 この『公』の再認識から、秩序や倫理というものが生まれるのですが、現在は「個」「私」が肥大化しており、その典型が一億円の小切手やヤミ献金にした政治家や西武グループ、カネボウなどの経営者たちです。

 私は、
個人は<私人>ではなく、<公の個人>でなければならないと考えているのです。


 いかがでしょう。政治家から子供まで日本人は骨抜きにされ、公としての個人を完全に忘れ去ってしまっていると思いませんか。こう言う私だって、いざこのような事件事故に遭うと理性を失い、責任感を重んぜず、ひょっとしてJR西日本のように宴会をしていたかもしれないのです。それを思うとき、人ごとではない、日本人一人一人が一人の人間として、していいこと、悪いことの分別を原点に還ってもう一度勉強しなおすことが急務ではないでしょうか。

も ど る