18年12月更新 所長の部屋 

今年一年もまた、いろんなことがありました。その背景には世相に対する憂いがありました。政界・財界の腐敗、家庭生活の崩壊、職場モラルの欠如、小・中・高学校のいじめ問題、自殺等生命の尊厳の稀薄さ、新聞やテレビで連日報道される陰惨な事件事故について暗澹たる思いを国民一人一人が味わいました。  この私の部屋も暗い話しでいっぱいでした。今年こそ、今年こそと思いながら、もう年の暮れ、来年に向けての輝かしい未来・希望はあるのでしょうか。

  最終月を迎えて、我々皆が一緒に考えて欲しいことを二点、 心の問題と、経営者の問題の中からお話をいたしましょう。

愛と救いの観音経・・・瀬戸内寂聴

「親が子を殺し、子が親を殺し・・。この世の地獄というのは今のことですよ」と表情を曇らせる瀬戸内寂聴さん。    「今は『自分さえよければいい』と思っているけれど、それが間違い。目にみえるものしか信じない。だけど仏さまも、人の心も目には見えない。そういうものを見る目がなくなってしまった。愛は、他人に対するおもいやりや想像力から発するという。今の社会はそうした思いやりを欠いてしまったと指摘されています。「人を好きになったら、この人はなにがほしいのかと考えるでしょう。それを言われる前に察して与えるのが愛。想像力を持つということは相手を思いやるということ。だから人への想像力を欠いた社会はダメなのです」仏教の慈悲とは無償の愛、どれほど愛してもその見返りを求めない。「これだけあげます。何も要りません」というのが慈悲で、その象徴が観世音菩薩の愛だという。
                
               『愛と救いの観音経』より

有終・・・やり遂げなくては意味がない

「有終」は古い言葉だ。『易経』謙の卦に、「君子は終わり有り」とある。「謙」は謙虚の意で、謙虚な人は内に徳が充満しながら、それを自分でひけらかさない。だから、そんな人は初めは運が悪くても、最後には運が向いてくる。これはいわばおみくじのご託宣(神のお告げ)だから、「謙」の徳のない人が勝手にそう思いこむと、とんだ悲劇になる。

『詩経』の有終は、もっと教訓的だ。大雅の「蕩」は、周王朝の衰退を傷む詩で、周は天から地上世界の支配権を託されたのに、王者たる徳を失墜したために、今や無秩序の世になったと慨嘆する。ことに次の二句はよく知られている。

      初め有らざるはなし

      克く終わり有るは鮮な

すべてスタートはみな一線、誰が有利も不利もない。だが、終わりを全うする者は少ない。周王朝だって、せっかく与えられた天命を自らの失政によって台なしにしてしまったじゃないか。何ごとにせよ、いったんやり始めたら、最後までちゃんとやり遂げなくちゃ意味がない。中国語で「有始有終」といえば、ものごとを最後まで完遂することである。

「有始有終」をもっと積極的な形にすれば、「善始善終」だろう。文字通りには「始め善く終わり善し」だが、決して順風満帆の成功をいうのではない。やはり、重点は終わり方にあるのである。
             日本経済新聞
           漢字コトバ散策より・・・興膳 宏

                                                                                        

  



              




                                                                                           

私事で恐縮ですが若いときの私は「愛は捧げるものである」と一人前の講釈をたれていましたが、齢60を迎える今、どうも見返りを欲求している自分に恥ずかしく“よくもこの様に書いたものだ”と、穴があったら入りたい心境です。

又、開業以来、初めての大幅な顧客の減少という事態は経営者として屈辱と敗北を味わいました。“やり遂げなくては意味がない”は正に私に言っている言葉です。後一ヶ月、肝に銘じて有終を迎えるべく研鑽しようと思っているところです。

今年も読者みなさんには大変お世話になりました。拙い“私の部屋”を続けて来ましたのもみなさんの温かい激励のお言葉や適切なご助言のお陰と深く感謝申し上げます。“継続は力なり”と申します、来年も又“私の部屋”どうぞよろしくお願い致します。

      





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