平成19年12月更新 所長の部屋
わが宿は 国上山もと 冬ごもり
      往き来の人の 跡さへぞなき
雪の夜に 寝ざめて聞けば 雁がねも 
       天つみ空を なづみ行くらし
今よりは 幾つ寝ぬれば 春は来む
      月日よみつつ
 待たぬ日はな(注)
 上記の三つの和歌は今年、生誕250周年を迎えた良寛禅師の無為自然を歌ったすばらしいものです。人々にかくも愛される良寛とは、いったいどんな人なのでしょうか。子供のような無邪気さと、道を求める厳しさと、貧しくとも満ち足りた心を持ち、彼の作品からは、その人生観がにじみ出てきているようです。
 今回は良寛禅師についてお話しましょう。
 
良寛の人生観

良寛というと、子供たちと手毬をついて日がな一日遊び暮らしたとか、隠れん坊をして、そのまま寝入ってしまったとか、庵に生えてきた竹の子のために屋根に穴を開けたといったエピソードが伝わっています。ほのぼのとした良寛の性格を表すものですが、 良寛の本質は青年期にさまざまな懊悩を経験し、禅の修業をしたことから、『自分の心を見つめて、安らかな境地に立つ』ということを追求した人でした。また人間が持っている感情や欲望、名利といったものを厳格にとらえて、それに溺れることは不幸になるとして、漢詩や和歌などの作品を通して教え示しています。さらに、関わった人々の悩みなどに耳を傾けて、自分の体験を通してそれとなく教示しています。晩年には貞心尼との心の交流のなかで、仏に導かれて生きることの大切さを語っています。

こうした良寛の姿は、無 為 自 然――人為で計らうことなく、自然のままに生きることの尊さを、身をもって示そうとしたものです。

 ひとりを楽しむ

 五月雨の 雲間をわけて わが来れば  経誦む鳥と 人は言ふらむ

この里に 手毬つきつつ 子供らと  遊ぶ春日は くれずともよし

春夏秋冬の四季のうつろいの中にふれあう人々と心ゆくままに交わっていく。
子供と無邪気に遊び、雲間に浮かぶ佐渡を思慕しながら、
ひとりの生活を楽しむことができる自分の心を楽しむ。

  自然と禅の心

 “ 形見とて なに残すらむ 春は花  夏ほととぎす 秋はもみじ葉”


 感謝と人恋しさ

人からの贈り物に心から感謝し、厳しい越後の冬の寒さに震えながら生活したのが良寛である。だが、苛酷な自然を呪うことなく、あるがままに受け入れながらも、人恋しさと春の訪れを心待ちにしている。最初の三つの作品(注)はそれを純粋に吐露するところに良寛の人間味が伝わってくる。

  無所有の思想
 人間にひそんでいる、さまざまな欲望や妄想の心を排しながら、『清貧』に徹することが禅者に課せられた使命である。良寛はこの求道を人生の中で行うことを決意した。托鉢しながら命をつなぐ米などを恵んでもらう。施す人々の慈悲の心を、仏道を修するという慈悲の心をもって返す。この自他の慈悲心をともに分かち合ったのである。

  救済とユーモア

険しき山の つづら折り あなたへくるり こなたへくるり

    くるりくるり くるくるとした こころはおもしろや

貧しい人や社会的に弱い存在の人に対して、限りなく優しい思いと視線をそそぎ続けたのが、良寛が持っていた慈悲心である。だが、それが実践できないというまどろこしさに切歯扼腕していたのも良寛である。その振幅のうちに良寛の歌があり、ユーモアにみちた気分転換の大切さがそれとなく示されている。

 虚偽と虚実を捨てよ

人は偽るとも 偽らじ   人は諍ふとも 諍はじ

  偽り諍ひ 捨ててこそ   常に心は のどかなれ

    昔も今も 嘘も真事も   闇も光も 晴れやらぬ

      峰の薄雲 立ち去りて   後の光と 思はずや君

偽りは人を騙すことであると同時に、自分の心を偽ることである。むきになって言い争いすることも、相手を負かすことと同時に、自分の心を歪めることである。そのような虚偽の行いを反省することで、いつも平安にしておいたほうがよい。また虚実や陰陽といった二律背反も、人間が生きるためには必要だと思っているが、そんな背反を突き抜けて真実の光が差してくるものである。それを信じて求めよ、と良寛は説いている。
                 『 四季のことのは(
GAKKEN  MOOK)より 』

今年最後の”私の部屋“は良寛禅師が残した数々の作品から心さやかにこの一年を締めくくりたいと思います。
 丁亥の年は政界、財界、官界、一般社会、全世界に激動の年になりました。来年こそはこの良寛禅師の人生観に近づき、無為自然で生きることの尊さと失われた日本人の精神を取り戻したいと思います。
皆さんこの一年大変お世話になりました。どうぞよい年をお迎えください。


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