『Sports Graphic NumberベストセレクションT』に収録されている「普通の一日」に、元マラソン選手の瀬古利彦が引き際を語った次のシーンがある。インタビューは沢木耕太郎だ。瀬古はエスビーの監督に就任したばかり。瀬古自身がスカウトした選手が8人しかおらず、うち1人は身体の不調で退部が決まっていた。駅伝には7人の選手が必要になるので、新人であっても駅伝に出られるくらいのレベルになってもらわなければ困る。
『そうしないと、ぼくがカムバックするなんていうことになりかねない』
瀬古は笑いながら言う。
『走ろうと思えば、今でも走れるの?』
『走ろうと思えばね』
『どのくらいで?』
『マラソンで言えば、2時間12・3分は出せるでしょうね』
『今でも?』
『今でも』
『それなら、もうしばらく走ればよかったのに。楽しみながら走るという走り方がないわけじゃな いのだから』
私が言うと、瀬古は少し厳しい顔つきになって言った。
『それはぼくたちの考え方と違うんです。これまでずっとレースは命のやりとりと同じくらい真剣なものだと思ってやってきました。負けてもいいから出るという気にはなれなかったし、これからだってなれないにちがいありません。2時間12・3分では走れる。でも、2時間6分の争いにはもう絶対に加われない。そうしたら、少なくともぼくは引退せざるをえないんです』
この言葉には、トップを目指して燃焼した者だけが持つ覚悟がある。瀬古のエピソードに見るような、自分の仕事を一層輝かせる“引き際の基準”を用意しておきたいものだ。
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